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2010-3の記事 |
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いつも心に応援歌 外崎(望月)千枝
下の息子も高校生となり、ひとりで大きくなったような顔をして、毎日二合飯を持って登校している。入学後一月ほどしたある日、帰宅するなり
「明日までに応援歌を覚えていかなければならない」と言った。
久しぶりに聞く応援歌という言葉。上の娘は、ここらにおける『共学化してない蟻ヶ崎』に行ったので応援歌には縁がなかった。
息子に応援歌を何曲覚えるのかたずねてみたら、一曲だと言う。
「お母さんの高校は10曲もあったよ」
「えっ、それ一日で覚えたの」
「当たり前じゃん(うそだけど)。今でも歌えるよ」
これはホント。うろ覚えでも、なんとなく歌える。あの年頃に覚えたものは忘れないのだ。
ふと振り返ってみると、県陵以後の年月は、いつも心の中に応援歌が流れていた気がする。
頻出度が高いのが「信濃健児」。
信濃健児は昔より 律儀廉恥を重んじて
こういわれると、はたして今、自分は廉恥を重んじているかと背筋が伸びる。記憶力がすぐれていた時代というより、やはり県陵で過ごした三年間は、その後の生き方に強い影響を与えたのだと思う。
「愛のリレー」のたすきが送られてきたとき、手の込んだ冗談だと思ったウチの子らも、大真面目な母親を見て「ありえねー」と言いつつ協力してくれるようになった。特に、自身も母校大好きの娘は文字通り、体をはって協力してくれた。あとでしっかり「特別手当」を請求されたけれど。
愛校精神イマイチの現役高校生の息子は、三十年後の自分と級友たちの姿など想像つかないだろうけど、鼻歌で母校の応援歌を口ずさむ母を、ちょっとうらやましそうな目で見ている。
というわけで、松本の実行委員のみなさん、たいへんな企画と編集作業、本当にご苦労様です。来る四月二十四日、県陵生に戻って「覇権の剣」を歌うのを楽しみにしています。
ところで、当日の歌詞は「基さだめて 五十余年」でいいんですよね?!
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東京同窓会
A組 外崎(望月)千枝
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縣陵 そこは私たちの原点 丸山(菅沢)富美代
私の高校時代といえば、毎日がバスケットに始まり、バスケットで終わっていました。あの当時は男子のバスケット部がとても強い時代でしたので、創部間もない女子バスケット部は朝だけ体育館で練習を行い、放課後は体育館を求めてあちこちに移動。それでもなかなか放課後の練習は思うようにできなかったと記憶しています。そんな中私は女子の練習がないと市内の某A高校の体育館に出向き、一緒に練習をさせてもらっていました。そんな日々を過ごしていたので当然クラスにいる時間などほとんどなく、クラスの友達と話したのもほんの少しだったと思います。でも、その少しの時間でもかかわることができた友達がいたからこそ今があるのではと思っています。
今回の同窓会とのかかわりは二年前のちょうど今頃になります。二つ上の先輩から「六月に私たちが幹事として行う東京同窓会の会議があるからちょっと様子を見にきませんか?」というお誘いを受けました。もともと好奇心旺盛な私なので二つ返事で参加を決めてしまいましたが、いざ4月の会議が近づいてくるとこんな大きなイベントの会議に私一人で出ていいものかと後悔の念が。
しかし、返事をしてしまった以上お断りをするわけにもいかず、当日は一人でその会議に参加させていただきました。軽い気持ちで出たものの、六月に本番を迎える直前だったので、資料等も見させていただく中で、その同窓会とやらが300人も集めて行う大イベントであることがわかり、東京同窓会の本番に集まった数人の同期の仲間(もちろんその中には大澤実行委員長と武居事務局長がいましたが)と二年後に果たしてこんなことができるのだろうかと不安になったことを思い出します。
まずは『人集め』からととにかく高校時代少しでもかかわったことがあった友達に連絡をとりました。もちろん電話をするときはまず私が「女子バスケ部のすげどん」であることから始めました。幸い電話したほとんどの人にその一言で反応していただき、その後の話も容易に進めることができ、その年の夏に32期の第一回の東京での同窓会を開催することができました。それが今回の初めの一歩でした。最初はどんな集まりになるのか心配でしたが、集まったと同時にそれはまったく問題のないものでした。不思議なもので、高校時代まったく話したことがなかった人とも、お互いが県陵にいたというそれだけのことで、なぜか急に会話がはずみ、実行委員会の組織ができ、今では高校卒業後の空白など信じられないくらいの距離になっています。
六月の本番まであと三ヶ月。その前に松本での開催される大イベントも原点を縣陵に持つ仲間が一丸となってやるしかない!ですね。松本のみなさんも、東京のみなさんもお互いに協力してやり遂げましょう!
参加された皆様、お疲れ様でした。
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43回東京同窓会 事務局
B組 丸山(菅沢)富美
(すげどん) |
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~あの日出会った仲間たちへ 敬意と感謝を込めて~ 帯刀浩光
~あの日出会った仲間たちへ 敬意と感謝を込めて~
今年の縣陵32期会(サニー会)東京のサブテーマです。
東京在住はもう15年目になるのに、昨年初めて会の存在を知り参加しています。東京32会のメンバーとは、正直在学中は一度も言葉を交わしたことがない方ばかりなのに、30年来の友人の様に接している自分に、幾分戸惑いながらも、楽しくやっています。
でも、それがある意味メインテーマ「縣陵 そこは私たちの原点」ということなのだなと改めて感じています。
しかも、企画部会長という大役を任され、年明けはカウントダウンが始まっているような感じでなんとなく忙しないこの頃です。企画としては、縣陵史をメインとして取り上げます。我々幹事が卒業した昭和55年を軸として、前後20年位の縣陵の歴史(学び舎、縣陵祭、競歩大会、応援練習、縣陵街道など)をまとめてみたいと考えています。
もしかすると、大先輩の貴重なお話を戴けるかもしれません。
現在資料集めをしており、諸先輩方をはじめとして、皆様方から貴重な資料・お写真の提供をお願いしております。お手元にご提供いただけるものがありましたら、是非ご協力をお願いいたします。
今、会報あがたの原稿を作成中で、32会東京幹事メンバーの30年前の写真を載せることとなり、古いアルバムをめくっています。当時は、写真を撮る機会も少なくあまり残っていないのですが、どれも懐かしい写真ばかりです。
あの日出会った仲間たちの貴重な一枚です。レパートリー毎に誰か解りますか?

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43回 東京同窓会 企画部会長
H組 帯刀浩光 |
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伝統について 二村健司
卒業して30年がたち東京ではあまり県稜の人と接する機会のないまま過ごしてきたわけですが、今回の思わぬ組織そして行事を通じ、たくさんの同期と接することができ結構楽しくやっております。
いろいろな意味で少なからず共感できるバックグラウンドがありかつ、そのうえに本当にきちんとした大人になった友人に触れると自分自身反省するところもありますが、お互いにリスペクトしながら順調に進んでいます。
今はトリノオリンピックの真最中。出だしからスノボー国母くんが注目を集めてしまいました。個性と言えば個性で、それぞれ賛否両論あるかと思います。ただ たぶん伝統あるスポーツ団体では起きずらい話だったかと。
新興スポーツにありがちな話題のような気がします。
やはり伝統のある集団の中では 取り立てて教育しなくても、ある種の常識や価値観が醸造され共有されて、あのような話は出にくいのではと思いました。
こちらにも東京同窓会という組織があり高齢の方が中心に活動されています。実は最初幹事会なるものに参加した時には、なんとも面倒くさい人たちであり組織なんだろうと思いました。今も東京の真ん中で覇権の剣や信濃の国を歌うことはかなり恥ずかしく感じます。
ただ伝統が引き継がれて行くということはこんな感じなのかなとも思います。
そして、30年も全く違う環境ですごしてきた今、いろんな個性の集団ではあるものの、どこか尊敬できる人たちと仲間として、また出会えたきっかけを作ってくれたこの伝統に感謝しています。
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というわけでここからが本題です
第43回東京同窓会 総会 懇親会
2010年6月12日(土)13:20- アルカディア市ヶ谷
私は副実行委員長と動員部長という立場で参加しております。
例年東京同窓会懇親会には松本から約50名ほど参加して頂いております。
松本の実行委員のかた中心にぜひ今からスケジュール帳の6月12日に予定を書き入れて頂けるようお願いいたします。
私たちもこちらから4月に参加させていただくこと楽しみにしております。 ぜひ宜しくお願いします。
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43回東京同窓会 副実行委員長 兼 動員部長 二村健司 |